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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [5]




 別に騒ぎ声が聞こえてくるワケではない。声はむしろほとんど聞こえなかったが、窓に映る人影がやたらと多かった。もともと小さな部屋に大勢が押し込められているため人口密度は高いのだが、いつもよりも人の動きが激しいように思えた。
 栄一郎は覗き込んだ。中から、すすり泣き声が聞こえてきた。
「もうすぐ、お父さんやお母さんが迎えに来るからね」
 溢れんばかりの少女たちが部屋に屯っていた。その中心にチラリと木枠が見えた。
「もう寝かせてあげよう」
 一人の言葉に、別の一人が屈んだ。何かを抱えているようだった。栄一郎は乗り出した。
 人の、頭だった。
 また麻薬?
 別の一人が、横たわる少女の足を持った。眠っているような少女は痩せ細り、大して大きくもない少女が三人協力すれば簡単に持ち上がった。そのまま木枠の中へと納められていく。
「あ、ダメ」
 一人が小さく叫ぶ。
「入らない」
 足を持っていた少女が戸惑いの表情を見せる。すると、あの例の、サナちゃんと呼ばれている少女が手を伸ばした。
「ごめんね」
 ポキッと、嫌な音がした。同時に何人かの少女が嗚咽した。
 一人の少女が、野花を(ひつぎ)の中へと入れる。棺なのだと、栄一郎にも理解できた。その少女の後に続くように、次々と花やら手紙やらが入れられていく。その様子を身じろぎもできずに見入っていた。
 翌日、寄宿係りから女工が一人亡くなったと聞いた。原因を聞いても言葉を濁すだけではっきりとはわからなかった。
 自分には関係の無い事だ。
 なのに、どうしても昨夜の光景が頭から離れない。どうしても気になって、再び少女を神社へと呼び出した。
「理由なんか知って、どうするのさ」
 憎悪を込めた瞳で睨まれた。
「お前たちが殺したんだろう」
 違う、こんな女の話など信じるな。
 じゃあなぜ、女を呼び出した?
 父親に聞けばいいではないか。きっと父はこう言うだろう。自己管理がなっていなかっただけだ。学の無い人間は明日の事や仕事の事など考えもせずにただ好きなように遊ぶ事しか考えていない。だから体調を崩すのだ。迷惑しているのはこちらの方だ。こちらはできる限りの手は尽くした。こちらに落ち度は無い、と。
「休みたくても休ませてもくれない。トイレに行かせる時間が惜しいからと言って水も飲ませてくれない。そんな状況で生きろという方が無理だ」
「だったら、辞めればいいだろう」
 少女は唇を噛み締めた。
「辞めれるもんなら、辞めてるさ」
 呟くほどの小さな声だったが、栄一郎にはハッキリと聞こえた。
 辞めれるもんなら? どういう事だ? こんな工場など辞めてやると言っていたのはこの女の方ではないか。
「アンタに話すことなど何もない。話したところであの子が生き返るワケじゃない」
 そう言って一方的に背を向ける相手に慌てて腕を伸ばした。
「待て。話は終わってないっ」
 夢中で腕を掴んだ。思いっきり引っ張った。グラリと、少女の身が揺れた。
 熱い。そして細い。
 そう感じる間もなく、少女は地面にうつ伏せた。栄一郎は慌てて手を離した。そうして、その手の平を凝視した。
 熱い。
 唖然と少女を見下ろした。境内には大木が茂り、辺りは陰っている。じっとりと汗ばむ暑さの中で、その涼は心地良い。
 そうだ、今日は暑いから、だから。
 そう言い聞かせる目の前で膝をつく少女の顔は、どことなく紅い。そして、蒼い。
 心なしか苦しげな息を吐きながら少女が立ち上がった。
「何だよ。用はもうないはずだろう?」
 挑戦的な瞳が、栄一郎を挑発する。
「なんだよ、その言葉。慎め」
 力を込めて肩を押した。少女は、まるで木の葉が舞うかのように、呆気なく地面に倒れてしまった。
 嘘だろ。俺? 俺のせい? そんな、俺、そんなに力を込めたつもりは。
 恐る恐る、その額に手の平を乗せる。
 熱い。間違いなく熱い。
 栄一郎は一歩下がった。
 どうしよう。
 ここは神社の境内。他には誰もいない。
 どうすれば。
 放っておくわけにはいかない。栄一郎が呼び出した事実は、寄宿係りが知っている。この少女が栄一郎に呼び出された事を、他の工員に話している可能性もある。ここに置き去りにしては栄一郎が何か危害を加えたのではないかと疑われかねない。
 どうすれば。
 必死に頭を回転させ、走って自宅まで戻った。
木崎(きざき)っ」
 父親に知れれば、またどんな小言を言われるかわからない。一番頼れるのは、歳の近い木崎だった。
「とりあえず、病院へ運びましょう。この熱は尋常ではありません」
 タクシーを呼び、半分朦朧とした少女を病院へ運んだ。
 命に大事は無いとのことだった。どうしても入院させなければならないという状態では無いが、一週間ほどの安静は必要だと言われた。
「こんなになるまで、なんで病院に来なかったんですか?」
 医師に問われても、栄一郎には答えようがなかった。
 女工が入院すれば騒ぎが大きくなるかもしれないし、面倒に巻き込まれるのも厄介だ。だが、ならばこのまま寮へ連れて戻ればよいのだろうか?

「休みたくても休ませてもくれない」

 そんな事、あるはずがないとは思いながらも、なぜだか寮へ連れて帰る事には躊躇いを感じた。しかし、自宅に連れて帰ろうものなら、父や家族の者が許さないだろう。
 なぜこんな女のために。
 木崎に相談し、祖父が住む富丘の屋敷へと連れて行く事にした。
「金を渡して寄宿係りを丸め込めば、事がお父上様に知れる事はございませんよ。富丘の大旦那様も、栄一郎様の言うことなら嫌とは言われないかと思います」
 久しぶりの孫の来訪に、祖父は手放しで喜んだ。抱える少女の姿に眉を潜め、親父には内緒にしてくれという栄一郎の発言に唸り声をあげはしたものの、結局はすんなりと部屋を貸してくれた。
 こんな小娘のために。
 ベッドで寝息を立てている少女の顔を覗き込みながら、栄一郎は心内で舌を打った。
 木崎が工場と連絡を取り、寄宿係りや職制に根回しをする過程で、少女の名前も知れた。山脇(やまわき)早苗(さなえ)という名の少女は、九州の田舎から出てきた農家の娘だということだった。
 使用人の手で綺麗に身体を拭われ、髪を梳かれて寝かされている姿は、意外にも美しかった。若干頬がやつれ、手足はか細く痩せてはいたが、唇はふっくらと柔らかそうで、額の形が綺麗だった。
 美しかったのだ。
 初めて電灯の下で見た時も、トイレで拭き掃除をしている姿も、神社に呼び出した時も、貧弱でみすぼらしい女だと思っていた。およそ女としての魅力など微塵も感じられなかった。
 睫毛、長いな。
 その顔にチラチラと光が当たった。視線をあげると、レースのカーテンが揺れていた。蒸し暑い季節とは思えないほど涼やかな風に、早苗の前髪が揺れた。
 そのまま一晩を富丘で過ごした。名古屋の方で夜通し遊び呆ける事など珍しくもない栄一郎だったから、一晩家に帰らなかったくらいで誰も騒ぎ立てはしなかった。だが、何の騒ぎも起こらなかったワケではない。翌朝、激しい物音が栄一郎を目覚ませた。
「何だ?」
 寝癖の残る頭を掻きながら扉を開けると同時に、早苗と鉢合わせた。







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